下館分限帳(頼重が下館の藩主であったころの藩士の分限)に、「百石 岡見八郎兵衛」とある。

下館藩の主要な地位の者は、水戸の徳川家に仕えていた者を分家等し付属させ、連れて来たものであって、譜代の家臣となり、後高松への移封の時も伴って移って来たようである。この分限帳には、どんな仕事を分担していたのかの区分が明らかでない。

 
讃岐高松分限帳(寛永19年・1642・高松藩祖松平頼重伝に収録)
寛永十九年に、松平頼重が讃岐高松へ移封となった時の分限帳に、
「大小姓衆 川南瀬兵衛組 弐百石 岡見八郎兵衛」とある。
 
讃岐高松分限帳(天明7年・1787)
「奉行 弐百石 米五拾俵役料 岡見孫太夫」
「徒目付 八両 四人扶持 岡見茂八郎」とある。
 
高松藩士由緒録(文化年間(1804〜17)に作成され、藩士の家系を記載)
岡見氏三郎
先祖
八郎兵衛
初 傳兵衛
於下館 百石 高松御入部 弐百石
平七 其子 旗奉行並 隠居号平休
孫太夫 其子 横目用人 五拾石加増都合弐百五拾石 奉行並
氏三郎 養子 中川喜内 三男 書院番ヨリ使番
岡見六三郎
徒目付
茂八郎 其子 徒士ヨリ徒目付 留守居寄合
六三郎 養子 徒士

文政年間讃岐高松分限帳(1818〜29)
「大番組 有島半右衛門組 弐百石 岡見孫太夫」とある。

嘉永年間讃岐高松分限帳(1848〜53)
「大番組 大森八左衛門組 弐百石 岡見孫太夫」とある。

高松藩分限帳(慶応二年・1866)(貴重書のため禁複写)
「大番組 大須賀波江組 弐百石 岡見孫之丞」とある。

旧高松藩士族名簿(貴重書のため禁複写)

これらの文献より、水戸と讃岐を結ぶ人物は、岡見八郎兵衛なる人物である。
水府系図の甚内経吉の長男 孫太夫吉勝は母方の菅谷(すげのや)姓を名乗り、次男の経豊の子孫が代々甚内を継ぎ、水戸藩に仕えた。その吉勝の子八郎兵衛勝永がまた岡見姓に戻し、松平頼重が水戸家の分家として下館藩主に就いた時、水戸徳川家より分けられた譜代の家臣として、下館分限帳に登場する。
この岡見八郎兵衛勝永が讃岐の岡見氏の祖であり、常陸と讃岐を結ぶ人物であった。高松藩士由緒録に「八郎兵衛―平七―孫太夫―氏三郎」と続く系譜が記載されているが、平七とは勝永の孫勝承ではないだろうか。また、孫太夫とは八郎兵衛勝永の父菅谷孫太夫吉勝に由来し、代々後継ぎが名乗ったのであろうか。一説によれば勝永自身も菅谷八郎兵衛から岡見孫太夫と改めとの資料もある。
水府系纂にも勝永の娘が「仕頼常朝臣 右衛門主之実母也」と書かれてある。高松藩士由緒記によれば、右衛門とは、二代藩主松平頼常の子 頼泰(幼くして死去)であり、その母は側室の宝照院(岡見氏)とある。
勝永の娘(美奈)が二代藩主頼常(水戸光圀の子)の側室となり、男の子を産んだが幼くして亡くなった。頼常には跡継ぎがいなかった為、初代藩主頼重(水戸光圀の兄)の孫が三代藩主についている。長生きしていれば、藩主の外戚となっていた。
また、勝永の兄弟は菅谷姓のまま高松藩に仕えており、高松藩士由緒記の中に菅谷宇太夫なるものがおり、宝照院の家臣と記載されている。
下館で百石、寛永19年(1642)讃岐入部のときは、大小姓衆 川南瀬兵衛組 二百石となり明治維新まで続いた。屋敷は、高松城下武家住人屋敷録によると、中浜丁北側(現在の高松駅のすぐ南側付近)にあった。