岡見氏一族の始祖については、すでに諸古文書によって、諸説が考証されている。しかし定説となっているのは、北家藤原氏系で下野国宇都宮氏の支族八田知家を祖に代々常陸国守護職を世襲した東国屈指の名門、小田氏(筑波城を拠城とした)の一族といわれている。最も信憑性のある文献「新編常陸国誌」も岡見氏は、小田氏の支族であると記している。(著者もこの説を唱えたい。)中世・牛久のほとんどを支配した岡見氏の興りから滅亡に至るまでの由来を推定、要約してみると、およそ次のようになる。

 「岡見氏の興り」

 今をさかのぼること六百年余り。南北朝対立の室町時代初期。

 常陸の国内においても、中央の後醍醐天皇の南朝宮方と足利尊氏らが擁立する光明天皇の北朝武家方による確執の争乱にまきこまれ、激しい攻防・合戦の舞台と化した。延元三年(一三三八)南朝の柱石北畠親房は、南朝宮方の政権勢力奪還と失地回復を計って、海路常陸国信太郡東条ヶ浦に漂着した。この地は、常陸における南朝方を統率し、総帥として縦横無尽の活躍をした常陸守護職小田治久の勢力圏であったため、親房は神宮寺城に拠城した。しかし、鹿島・行方・新治方面から、親房討伐に南下する常陸北朝武家方旗頭佐竹義重の被官で畑田・宮崎・鹿島等の土豪鹿島一族の軍勢に神宮寺城は落城。親房は阿波崎城に逃れたが、一時で、やがて霞ヶ浦を渡航して小田城にはいった。

 南朝方の神宮寺城・阿波崎城等を次々と攻略し、勢いに乗る北朝方は、小田氏麾下の河内郡へも迫る。治久は、対抗策に河内郡東端の地であるいまの岡見に砦を築き、二子某を守将において北朝勢侵攻の押さえとした。

 後世の岡見城は、この頃が築城のはしりである。

 つくば山麓の小田家宗城小田城に篭城した親房は、たえず北朝方と四部五列の戦いを繰り返しながら、「大日本は神国也」ではじまる有名な「神皇正統記」を起稿した。

 延元四年(一三三九)室町足利幕府は東国南朝勢征伐の兵を起こし、執権高師直の長子で東国執事師冬の率いる大軍が、常総平野へなだれこんだ。

 師冬軍は、南朝方小田氏の出城を陥れながら親房・治久の小田城に迫り、対峙したが戦果ははかばかしくなかった。

 興国二年(一三四一)にはいると師冬軍は、再度小田城を囲み猛攻した。この戦いで、親房は関城に潰走、常陸南朝方忠臣として功をなした治久であったが、やむなく師冬に恭順した。

 室町幕府は、常陸国守護職小田治久を解任、代わって論功行賞で佐竹氏に与えた。

 常陸国の両雄、小田・佐竹氏の確執の抗争は、南北朝争乱を端に発し、小田氏が土浦城において、天正一四年(一五八六)佐竹氏に滅ぼされるまで延々、数代に二百年におよんでいる。

 小田治久の二子某がはじめて岡見に居館を構え、岡見の氏を号して以来、岡見一族の後胤は、代代、南北朝争乱後、衰えをみせた主家小田家に代わって河内郡一万二千石を領する。もっとも隆盛期である室町時代末期から安土にかけての戦国時代にいたっては、隣接する信太郡久野付近の土岐領・下総国利根川以北で相馬郡のほぼ半分の地を攻略。兼併すること常総二万石に及び、権勢を誇った。

 小田治久┳孝朝                           ┏宗治 中務少輔 足高城主

          ┗二子某・・十代の後胤 ・・頼忠(縫殿助 伝喜入道)┫頼房 治部大輔 牛久城主

        岡見氏始祖                            ┗頼治 主殿介 谷田部城主


岡見家隆盛期、天正一〇年(一五八二)頃の出城をあげてみると、つぎのようになる。

久野城 牛久市久野 小池城 阿見町小池 福田城 阿見町福田

小坂城 牛久市小坂 岡見城 牛久市岡見 牛久城 牛久市根古屋

若柴城 龍ヶ崎市若柴 泊崎城 茎崎町泊崎 東林寺城 牛久市新地

高崎城 茎崎町高崎 岩ヶ崎城 茎崎町下岩崎 若栗城 茎崎町若栗

谷田部城 つくば市谷田部 小張城 伊奈町小張

足高城 伊奈町城中・栗山・足高と三部落にわたっている。城郭環濠集落の規模は常総屈指である。

小絹城 谷和原村小絹 大鹿城 取手市白山 小文間城 取手市小文間

等である。

 「戦国時代の常総地方」


 中略。


 当時、常総において乱世を生き抜いた豪族あまたあるなかで、戦略・謀略に長け傑出していたのは佐竹義重・義宣親子である。他に小田城の小田氏、下妻の多賀谷氏等があげられるが、佐竹氏の比ではなかった。

  佐竹氏始祖は、清和源氏末流で、新羅三郎源義光(甲斐国の梟雄・武田信玄と始祖をともにする)より興っている。義光の孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に居館を構え、佐竹冠者を名乗ったのに始まる。のちに鶴舞城(太田城)に移り、代々勢力を拡大して、南北朝争乱後は小田氏に取って代わり守護職を世襲し、一大豪族として四隣に武威を唱えた。

 このような常総の時流を背景に常総二万石の領主・岡見中務少輔宗治(足高城主)の筆頭家老・栗林下総守義長(関東の諸葛孔明と云われる知将)は、小田氏をはじめ隣接の土岐氏との三家同盟を結んだ。そして、天正二年(一五七四)常総攻略に北上した東国八州の覇者・小田原の北条氏と和睦し、その麾下に入り、強宿敵佐竹・多賀谷氏等の連合軍と対峙した。ちなみに、三家同盟と北条氏という大きな後ろ盾があるゆえに、小田・土岐・岡見家の滅亡が救われたのである。

 「小田・土岐氏の滅亡」

 天正一一年(一五八三)、江戸崎城、木原城、龍ヶ崎城を拠点とする土岐氏は、佐竹義宣・芦名義広兄弟の軍により攻略され滅びる。

 続いて、天正一四年(一五八六)に土浦城に背水の陣を強いた一五代小田氏治は、佐竹・多賀谷連合軍と戦ったが、重臣の内応により落城。八田知家以来、一五代四百年続いた名門小田氏も武運つたなく戦国の露と消え去ったのであった。落城後、氏治とその子守治は、奥州に逃れ白河方面に雌伏していたが、小田城奪還はついにできなかった。

 「秀吉の全国統一と岡見氏の滅亡」

 小田・土岐両氏の滅亡により三家同盟が崩壊して、岡見氏は四面楚歌となった。天正一五年(一五八七)には、栗林下総守義長が足高城内で病没し、事実上の柱石を失った岡見氏は、それを契機に佐竹・多賀谷氏等の侵略を許し始めた。やがては、牛久沼沿岸の河内郡半郡を領するのみとなり、斜陽への一途をたどる。

 時に天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の東国・奥州征伐。この頃、すでに東国以西を平定し、残るは東国の北条氏と奥州米沢の伊達氏のみである。秀吉は自ら東国に下り采配を振るった。佐竹・多賀谷・結城氏は、早くから秀吉に好を通じ、その先鋒となり武功をあげた。ちなみに佐竹氏は天正一九年(一五九一)常陸国内を平定し、五十四万石を拝領し、名実ともに常陸を代表する大大名になったのである。

 このような時代の大きな推移、流れに反して、水戸城の江戸氏・府中城(石岡)の名門大椽氏とその一族・行方、鹿島の三十三館の領主・守谷の相馬氏・牛久の岡見氏等は、最後まで小田原北条氏に殉じた。したがって、天正一八年(一五九〇)三月、秀吉の小田原城総攻撃に呼応して、北条党五十余の支城もいっせいに包囲され、軍門に下った。岡見氏最後の砦として残った要害の地牛久城も佐竹氏客将で常陸片野城(新治郡八郷町片野)城主、かの名将太田道灌四世の子孫、太田三楽斎資正の率いる軍勢に囲まれ難なく陥落した。

 こうして十数代二百五十年に渡って中世牛久を支配した名門小田氏の一族岡見氏は、戦国時代末の過渡期に、ことごとく滅びさったのであった。


 「参考文献」

茨城県資料・水戸市史・日本の歴史・新編常陸国史・茨城県の歴史・関八州古戦録

時代考証辞典・土浦歴史地図・日本都市成立史・東国戦記実録・糸繰川史・小田軍記

利根川図誌・総合郷土研究茨城


 昭和四十九年九月収録

 牛久町大和田五二四

 電話・牛久二―三三七七

 栗原 功