岡見甚内經吉 曾祖ヲ小田左衛門佐成治ト云八田筑後守藤原 子孫ニ至テ本姓源ニ復ス 知家カ後ニテ常州
小田ノ城主也祖父ヲ右衛門大夫某ト云 同國牛久城主ナリ 至讃岐守氏治入道天庵カ後見トシテ軍役ヲ勤ム
然ルニ右衛門我意ヲ立テ氏治カ下知ニ不従 氏治大ニ怒テ親類ノ好ミヲ除テ臣子ノ列ニ加シト云 右衛門是
ヲ憤テ同國岡見ニ引退キ氏ヲ改テ岡見ト稱ス 氏治聞テ氏ヲ改ルニ於テハ小田ノ幕ノ紋ヲ返投スベシト云
右衛門聞テ白幕ヲ用ベキ事謂シナシト云テ不容 親族是ヲ諌ヲ以テ遂ニ紋ヲ改テ六孫王ノ六ノ字ヲ象リ洲濱
ヲ以テ家紋トス 氏治下総ノ相馬ト一戦ノ時右衛門先鋒ニ進ミ相馬某ヲ討取ル 氏治是ヲ感賞シテ五箇村ノ
采地ヲ与ヘ且元ノ如ク小田ヲ稱シ幕ノ紋ヲモ返シ与フヘシト云 右衛門會テ不肯 是ヨリ子孫岡見ヲ稱シ洲
濱ヲ以テ紋トス 父ヲ山城守某ト云 牛久ノ領主タリ 兄ヲ山城守治廣ト云 初名治部大輔 父ニ継テ牛久
ノ領主タリ 嗣子無キヲ以テ弟經吉遺跡ヲ継テ領主トナリ 北條氏政ニ仕フ 領地小張ノ砦普請アルニ依テ
押ヘトシテ安宅ノ砦ニ到ルニ及テ兵三十騎足軽三百人ヲ相具ス 彼城ニ於テ敵二人 一人ハ豊島伊賀某 
一人ハ姓名未詳ヲ討取ル 時ニ十七歳 又氏政佐竹義重トノ一戦ニ經吉先登ヲ請望ム 氏政是ヲ許ス 經吉
若年タルニ依テ井田因幡某ヲ指副手ノ者五十騎ヲ相副テ土浦ニ出陣シ軍功ヲ励ス 氏政稱美ノ余リ書ヲ贈テ
經吉弱冠タリ壮勇ニ誇テ無益ノ働ヲ止メ身命ヲ全フスヘキ由ヲ下知セシム 其文書等今家ニ蔵ム 北條家没
落ノ後忠輝朝臣ニ仕フ 配流ノ後浪人トナリ元和六年庚申威公ニ奉仕ス 三百石ヲ賜テ寛永三年大帳大番組
トナリ元和年中同組頭正保元年甲申六月十八日死ス 八十一歳 菅谷甲斐守某常州小田ノ家士カ女ヲ娶テ二
男ヲ生ム 長ハ菅谷孫大夫吉勝 母ノ氏ヲ冐ス 松平伊豫守忠昌ニ仕ヘ後退去シテ死ス 子孫英公ニ仕フ 
次ヲ甚内經豊ト云 云云

訳)
岡見甚内經吉 祖先を小田左衛門佐成治(1)と云った。八田筑後守藤原知家の子孫で常州小田城(2)の城主だっ
た。祖父を右衛門大夫某と云う。
牛久城主(3)である。讃岐守氏治入道天庵(4)の後見として軍役を勤めた。
しかし右衛門我意を立てて氏治の下知に従わなかった。氏治おおいに怒って親類の誼を無くして臣下の列に
加えた。右衛門是を憤って同国岡見に引き退いて氏を岡見と改めた。氏治これを聞いて「氏を改めるなら小
田の幕の紋も返せ」と云った。右衛門これを聞いて「白幕の使用は勝手だ」と容れなかった。親族は是を諌
めて、遂に洲濱に家紋を変えた。氏治が下総の相馬と戦った時、右衛門は先鋒で相馬某を討取る。氏治是に
感謝して五箇村を与え、元通り小田を名乗り幕の紋を使えと云った。右衛門は会ったが、それに従わず。是
より子孫岡見を称し洲濱を紋とした。父を山城守某と云う。牛久の領主。兄を山城守治廣(初名治部大輔)
と云う。父を継いで牛久の領主。嗣子がいないので、經吉が後を継ぎ領主となり北条氏政に仕えた。領地
小張(5)城の普請の時、押さえとして足高(6)城に、兵三十騎と足軽三百人伴った。その城で敵二人(豊島
伊賀某と姓名未詳)を討取る。その時十七歳。又、氏政が佐竹義重(7)と戦った時、經吉は先鋒を望んだ。
氏政は是を許したが、經吉が若いため、井田因幡某(8)と配下の者五十騎付けて土浦に出陣させた。そして
その軍功に対し、氏政は感状を贈った。そして井田因幡に「經吉年若く壮勇にまかして無理をして、命を落
とさせぬよう」下知した。其文書等当家に所蔵。北条家没落後、松平忠輝(9)に仕え、忠輝の配流後浪人とな
り、元和六年庚申
威公(10)に仕えた。三百石を賜って(寛永三年大帳によると)大番組となり、元和年中に
同組頭、正保元年甲申六月十八日に死す。八十一歳。菅谷甲斐守某(常州小田ノ家士)の娘を娶って二男を
設ける。長男は母方の姓を名乗り、菅谷孫大夫吉勝。松平伊豫守忠昌(11)に仕え、その後退去して死す。
子孫は英公(12)に仕えた。次男を甚内經豊と云う。云云。

《本書は茨城県立歴史館にて所蔵。複写禁止のため書き写す。》

(1) 戦国期の常陸国の守護大名
(2) つくば市小田
(3) 茨城県牛久市
(4) 小田家十五代最期の当主
(5) 茨城県伊奈町小張
(6) 伊奈町足高、安宅は当て字
(7) 常陸北部の源氏の名門
(8) 千葉県山武郡の北条家の外様大名、佐倉衆の一人 井田因幡守胤徳のことか。
氏政より命を受け、佐竹氏南下の阻止の為、牛久御番として牛久に駐在し、
岡見氏を援助した。甚内に関する因幡宛の氏政の書状数通現存。
(9) 徳川家康の六男 越後高田六十万石藩主 後に改易
(10) 水戸藩初代藩主 徳川頼房
(11) 徳川家康の次男結城秀康の子 福井松平氏
(12) 高松藩初代藩主 松平頼重 水戸藩初代藩主徳川頼房の子、光圀の兄
下館五万石から高松十二万石に移封加増
※この甚内の名を継いだ系統が代々水戸家に仕え今に至っている。水戸市立図書館所蔵の江戸時代初期の城下敷地区割り図に甚内の名が在る。また幕末期に元水戸藩士岡見留次郎なる者が居り、品川の英国公使館焼き討ちや天誅組にも参加している。
※甚内の長男=菅谷吉勝の長男=勝永が岡見姓に戻し下館藩に仕え、頼重公の下館藩からの転封に伴い高松の地に根を下ろしたのである。この系統が高松の岡見氏の祖先である。下館藩分限帳に百石、高松藩分限帳に加増して二百石との記載あり。
※勝永の娘(美奈)は仕頼常朝臣 右衛門主之実母也とある。これは高松藩二代藩主松平頼常の側室で右衛門主(頼泰)の生母(宝照院)のことである。なお、頼常は徳川光圀の実子。
山城守流岡見家の正統である岡見甚内の系図を水府系纂に発見した。
その系図に甚内経吉の孫(勝永)が高松へ渡ったと記録されている。
彼が高松岡見家の祖である。